〜〜〜2005年11月頃のこと。近所の山を訪れた私の物思いの記録
今日は山に登る機会があった。
静かな冬山の雰囲気に当てられて、しばらく山中で物思いに耽ったのだが、そのとき感にいったことがある。
その物事を、ここに記そうかと思う。
人の世界にはその外側がある。
実生活においてその大半を我々はその内側で過ごし、その外側に気づくことは滅多にない。
仮にその場所に近づくとも、その場所から立ち込める「人の匂いの無さ」に恐れおののき、自ら足を引き返してしまう。
内側は安全であり、人の匂いに包まれていられる安心感がある。
逆にそれが無い外側は文化の力の届かない恐ろしい場所で、同時に孤独をつきつけられる寂しい場所だ。
人は孤独を常に恐れ、だからこそその内側に身を潜めたがる。
しかし、その内側にいながらして人は孤独に苛まれる。
おそらくあまりに内側で過ごすことに慣れ過ぎて、内側そのものがわからなくなってしまうのだろう。
住処を出れば探さずとも他人が居る。
友人の家を訪ねれば友人が居るだろう。
少し高いところから町を見下ろせば一面の人工物の山だ。
どこを見回しても人の匂い。脳化された世界が続いてゆく。
だから次第に分からなくなってくる。
溢れる内側は外側を埋め尽くし、外側という価値観すら奪い去ってしまう。
己が内側に存在するのが当たり前で、けれどその内側である喜びに気づけない。
自他の境界線はあやふやになり、己を見失い、他人も等しく理解する能力を失ってゆく。
孤独こそが孤独を救う唯一の方法、と定義するのは傲慢というものだが、悪い響きではない。
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